フィッツジェラルドノート2
観劇後に、とにかくフィッツジェラルドの本を読みたくなった。
特に、「夜はやさし(Tneder is the Night)」。
ところが、これが普通の図書館には
ないんですね(今や純文学を専攻する人くらいしか読まないかな?)
しかし、私の隣人は若き英文学研究者である。専門は、中世宗教文学だが、
英米文学一般に造詣が深い。ウィリアム・ブレイクについても
教えてもらったし、「妖精辞典」など(すっごく面白いけど個人が趣味で
購入するには高すぎる!)めくりながら「指輪物語」の話をしたこともある
(この時は、「ロード・オブ・ザリング」に嵌っていたから)。
私の突然の「〜について、教えて!資料かして」という
要望につきあってくれる奇特な隣人なのである。
というわけで、今回もいきなり押しかけて
「フィッツジェラルドの本貸して〜!」
「おお!今度は、フィッツジェラルド?また、なんで?」
「え〜と、彼の一生を題材とした舞台を見て、それがすっごく良くてね」
舞台のあらすじをかいつまんで教えてあげると、興味津々。友人にゼルダ
研究者もいるというので、DVDが出たら貸してあげる約束をする。
で、何冊かあるうちのとりあえず短編集を借りることに。
「『華麗なるギャッツビー』はね。まさに、アメリカのあの時代にしか
生まれ得なかった作品ですよね。高度成長期の米国で、スーパーハイウェイが通り、移動が容易だったから、ああもいろんなところに出没して、
それが小説にスピード感を与えているんですよね」
「私、昔読んだときには文章が甘ったるくて好きでなかったんだ。
今、読み返したら違うような気がするけど。
ヘミングウェイの文章はぐいぐいひっぱられて読めたんだけどね」
「そう、ヘミングウェイの文章は、モダンだったんだよね。
彼の文章は、当時の英語にもすっごく影響を与えていて、文章が口語に
影響を与えた珍しい例なんですよ」
お〜、そうなんだ。でも、なんだか分かる。私が、ヘミングウェイの作品を英語で読んだのは、プリンストン大学(偶然。フィッツジェラルドも
学生自体を過ごした大学)にいた時だった。
持ってきた日本語の本を全て読み尽くして、読む物がなくなって
仕方なく手を出した(そうでなければ、英語で小説など読まない。爆)。
それくらい小説に飢えていたから、英語なのに夢中で読めた。
ちなみに、こういうときは辞書はひかないのがコツ。
分からない単語があろうと、固有名詞が何なのか??
でも、とにかく読み切る。そんな勢いでヘミングウェイを読むと、
その後なんだかヘミングウェイっぽしゃべり方になっている(笑)。
カクカクとした、断定調というのか(村上春樹を読むと、
その後「僕」っぽいしゃべり方になるのと同じか)。
「フィッツジェラルドの文章は、感傷的だよね。でも、
本当にうまい文章だと思う。華やかなんだ。ギャッツビーの、
あの米国の華やかな時代をすっごく上手く切り取っている。でも、
虚構に満ちた華やかさを書いているにも関わらず彼の本質は....」
「...モラリストなんだよね」
「そう、そうなんだ。結局すっごくまじめな人なんだろうね。それが
作品ににじみ出ている。英文学専攻している人間でも、
フィッツジェラルドのギャッツビーを読むと、アメリカ文学がやりたくなる」
そう、彼の作品の底を流れているのは、きっと、そうした真面目な人柄
なんだろうな。フィッツジェラルド好きの村上春樹が「フィッツジェラルド・ブック」で、それを作品の持つ「徳」と表現していたけれど。
どんな狂乱やバカ騒ぎを書いていても、決して下品にならないものがある。
もしかしたら、これが作品をつまらなくしているのかもしれないが、
作者のもつ資質が作品にバランス良く生かされているというのは、魅力的な
作品の重要な要素だと思う。
「Last Party」で植田景子氏はヘミングウェイ(月船さらら。好演)に
「一流の芸術家の仕事は、決して個人の感情を作品に塗り込めることではない」と語らせているが、確かにこれは一理ある。しかし、結局作品が人を惹きつけるのは、その作品に作者の個人的バックボーンが透けてくるからなんだろうな。だからこそ、「Last Party」で学生が失意のフィッツジェラルドに
「でも、彼の作品は一個人の人生に寄り添ってくれるなにかがある」と
言われることが説得力を持ってくる。
同じことは、演技にも言えそう。私が和央ようかの演技が好きなのは、
どんな役を演じてもどこかに彼女の誠実な人柄が透けて
見えるからだと思う。荒くれ男を演じようが、醜い怪人を演じようが
どこかで突き放せない誠実性がでてくるところに惹かれているんだろうな
(もっとも、誠実な人物を演じさせるとつまらない人になって
しまうという側面もあるが)。




