グレンーダーロク(Glenderlough)の暗い森〜中編〜

Scene 3 グレンダーロークの森の中

暗い暗い森の中を小さな影が走る。

― 妖精とは、取引をしては駄目よ
― あいつらはずるがしこいから、悪魔に魂を売るのと同じことになる
― 妖精とは取引をしてはいけない
― 妖精に騙されて、取引してしまった隣村のマイケル親爺がどんな末路を辿ったか聞いているだろう。

色んな声が、森を走るティモシーの頭に響いてくる。
亡くなった母親にも、孤児院のシスターにも散々言われていた。
「暗い森の中に潜む妖精は、貴方の心の隙を狙っているから、きっと有利な取引条件をもちかけてくる。
でも、取引をしてしまったら取り返しのつかないことになるから。だから、夜の森には近づいては駄目よ」

それでは、何も持たない孤児は、どうやってクリスマスの願いを叶えればいいのだろうか。
― 駄目だよ、駄目。
― ティモシー駄目よ。

いくつもの声を振り切るように、辿り着いた古木の洞に、願い事を書いた紙を押し込む。
クリスマスの日に姉さんと二人きりの時間を。どうか、お願いします。

「これは、取引じゃない、叶わなければ取引にならない。」

自分になんども言い聞かせながら、はねる心臓を押さえながら、ティモシーは暗い森の中、
孤児院へと通じる帰り道を急いだ。

僕は、悪魔に魂を売っていない…。

そして、クリスマスの朝、ささやかな願いが叶えられた。
「シスターが、いつも手伝いをさせているから、今日は1日ゆっくり休みなさいって。
ねえ、こんなことってある?いつも、お休みになると、小さな子供達の誰かしらは、熱を出したり、麻疹になったり、するのにね。」
「二人きりで過ごすなんて、ここにきてから初めてじゃない?」
興奮を隠しきれないメアリーは、なんども弟の柔らかい髪を撫でては、くすくす忍び笑いをもらした。いくら年上といっても、他人の中で生活することはメアリーの神経も、すり減らしていたのである。
「これが私たちへの神様からのクリスマスプレゼントかもね?あら、いやだ。ティムそんな変な顔して、大丈夫、ちゃんとお姉ちゃん、ティムにもプレゼント用意してあるのよ。」
エプロンのポケットから差し出された小さな包み。
「はい!ほら、昨日の夜オーブンを使わせてもらったの。なんだか、すごくない?」
甘い甘いバターケーキ。
長く夢見ていたそれなのに、その日のティモシーにはひどくぱさついて感じられ、一口飲み込むのがやっとだった。

そう、あの夜、僕は妖精と取引をしてしまったんだ。

それでは、僕は何を妖精に差し出さないといけないのだろうか。

Scene 4 ニューヨーク再会

 ニューヨークにきて、仕事の忙しさに紛れていると、暗い想いは忘れられた。
輪転機の音がなければ、白い夢魔のささやきに悩まされそうではあったが。
モーリスは、ガリきりも、校正も、広告とりの仕方もみんな教えてくれた。
まだ、小さかったティモシーは、どこでも可愛がられた。
そう、仕事は使いぱしりのようなものだったけれど、ティモシーにとっては楽しいものだった。

自分は、好きなのだ。
このインクの匂いと、この輪転機の回る音が。
もう、あの暗い森を走り抜けた自分はいない。

ティモシーは、そう信じて新しい生活にとけ込もうとしていた。

孤児院の5人の仲間とは1年に1回、会う約束をしていた。
いつもの集合場所にいくと、幼なじみとは違うが、やはり同じ年頃の子供達がウサギの巣をみつけたと大騒ぎをしていた。
巣の中から、まだ産毛のような子ウサギを引きずり出して、子供達はそのウサギをどうするか、相談していた。
ティモシーが、見るとはなしに見ていると、
子供達はズボンのポケットからナイフを取り出して、
「クリスマスにもらったナイフなんだ。まだ切れ味を確かめたことないから。」
やろうよ、やろうよ、とあっという間に狂気が子供達の間に伝染していく。
残酷な生け贄に選ばれた子ウサギが、叫び声を上げるまもなく、いつきたのかパトリックが、リーダー格の男の子に飛びかかっていった。
「何をするんだ!」
「よせよ!ウサギが可哀想じゃないか!」
「何を!この移民野郎!」
「そうだ!お前には関係ないだろう!ここは俺たちの遊び場なんだからな」

シャノンが「やめて!」と泣き叫び、ミックがパトリックの加勢にとその中へ飛び込んだ。ウォルターとティモシーは、まるでなす術もなく、呆然と男の子達に飛びかかるパトリックとミックを見ていた。

「覚えていろよ!このカソリック野郎!」
捨てぜりふを残して、去っていく子供達を見送り、シャノンはぐったりした子ウサギを抱え「死んでいる」と呟いた。
「可哀想だよ。可哀想すぎるよ」とミックが泣きじゃくる。
泣く二人を、慰めながらパトリックがどこからか箱を探し出して、子ウサギをその中に入れた。
「海が見えるここに埋めてあげよう。僕たちの大切な再会の場所に。そうすれば淋しくないから。」
パトリックは拳を握りしめながら
「全くなんて奴らだ。こんな子ウサギを遊びで殺すなんて、許せないよな」と呟き、
言葉も発せず、立ちつくすティモシーとウォルターを怪訝そうに見上げた。
「ティモシー?」

陶酔に震えるのはあってはならないのだろう。
兎の白い腹がぴくぴくと動き、赤い血が白い毛皮を薄く染めるのを、美しいと思っては
いけないのだろうか。
姉さん…。
暗闇に白く上下する腹部。
それは、見てはいけないものだろうか。
パトリックとは、もう気持ちが通じ合わない。
だって、僕は悪い子なんだ。
きっと、もう僕には子供がみんな持っているという天使の翼はないのだろう。
妖精が、願い事と引き替えに持っていったのは、僕の天使の翼だったんだ。

翌年から、ティモシーは5人の集まりにはいかなくなった。
もっとも天使の翼をなくしていたのは、ティモシーだけではなかったようだが。

Scene 5 ニューヨーク3年目

ニューヨークでの生活も、決して豊かではないけど、少しずつ上向いていった。
1年目のクリスマスは、いつもと変わらないスープとにしんとパンだった。
敬虔な顔で祈りを捧げた姉は、「キリストと同じよね。イエスさまも何ももっていらっしゃらなかったから。
お誕生日の日だって、特別なものはきっと何もなかったわよね。」
モーリスは相変わらず何も考えていないような顔で笑った。
2年目のクリスマスに肉がつくようになった。
「新聞社が順調なの。もう少し広い家に移れるかもよ」嬉しそうに話すメアリー。

ティモシーは、暗い思いで姉の言葉を聞いた。

ああ、そうしたら僕はもうあの輪転機の下で眠ることはないだろう。
今度は姉と同じ屋根の下で寝るのだ。そうしたら、もう一度妖精が、あの白い夢魔が現れないだろうか。
夜ごと、僕になくした天使の翼について、囁きはじめるのではないだろうか。果たして、僕は耐えられるのだろうか。

そして、ティモシーに姉と義兄が撃たれたとの知らせが入ったのは、いつものように刷り上がった新聞の束を抱えているところだった。
校了前で泊まり込みをしていたモーリスの下にメアリーが夜食をもっていったときに、何者かに撃たれたという。
モーリスはメアリーをかばって、銃弾は腹部を貫通し即死だった。
警察は、「押し入り強盗ですな。ここら辺も物騒になってきたから、運が悪かったね」と機械的に現場検証をして去っていった。
したり顔のおしゃべり雀が、ティモシーに内情を耳打ちしていった。

― 町の有力者の気に入らない記事を書いたらしい。全く馬鹿な男だよ。
― 誰だい?その有力者って。
― ダン・マクガバン。やはりアイルランド移民だよ。一荷揚げ業者から、禁酒法で甘い汁をすって、一大コンツェルン総帥まで成り上がった男だよ。

ダン・マクガバン。
葬儀屋がくるまで、ティモシーは二人揃って並べられている遺体を見下ろしていた。
不思議と涙は出なかった。
瞳を閉じたメアリーは、いつものメアリーとまるで変わらないように見えながらも、確実に腐食という邪悪のものに身体を蝕まれ、おぞましい匂いがどこからともなく、誘うように漂っていた。
―今なら、許されるかもしれない。

ティモシー・キャラハンは、義兄を隣にしながら、姉にくちづけをした。
ひどく冷たい唇だった。
震えるような陶酔が、ティモシーの頭の先から足の先まで走った。
「…姉さん。」

初めて情欲の瞳を持ちながら、かき抱く愛しいその人の身体は硬く、黒い想いまで拒
絶しているようだった
そして、ティモシーはもう輪転機の音が必要ないことに気が付いた。

ー感謝するよ。マクガバン。お前のおかげで俺は輪転機の子守歌から解放された。
もう、輪転機の下で眠らなくても、妖精はきっと囁かない。
お前に会ったら俺は一体どんな顔をするんだろう。
被害者の弟の顔をして、お前を責めるのか、それとも妖精の囁きから解放してくれたことに感謝の言葉を伝えるのか…。

                                (後編へ続く