夜明けの街を、トラックが走り抜ける。
まだ眠りから覚めていない街の中で、ここだけは皎々と灯りともり、
騒がしい音を立てている。
インクの乾ききっていないロール紙が裁断機に飲み込まれ、
正確に切り刻まれていく。
ごとんごとんと紙の束をはき出す、機械の乾いた音が静かな街に響く。
ティモシー・キャラハンは、この風景が好きだった。
インクの匂い、薄暗い影を作り出すアセチレンの光、刷り上がりの新聞を待つトラック。
「おい、坊主そんなところで、寝ていると、お前の方が明日の新聞記事になっちまうぞ」頭上からアイリッシュウィスキーで焼きただれただみ声が響いてくる。
うーんと小さく伸びをして、輪転機の隙間からはい出して、せわしなく動く男達に混じって新聞の積み出し作業に加わる。
「よせやい!仮にもブンヤになろうという俺がそんなへまをするもんかい。」
「何を生意気言ってるんだか。」
「使いぱっしりもまともに出来ない坊主のくせに!」
追っかけるようにいくつもの野太い声が重なってくる。笑いがさざ波のように広がっていく。新聞の積み出し作業は、港湾労働者の荷揚げ作業と変わらない労働だが、ここで働いている男達には、「文字と関わっている」という誇りがあった。
「俺らはさ、ほら、インテリだからさ。なんたって、新聞を作っているんだからな。」
「そうさ。その辺の仕事とはちょっと違うってわけだ。」
ウィスキーの回し飲みは、必ず最後はそんなろれつの回らない言葉で締めくくられている。貧しい男達のささやかな衿持を、支えて今日も輪転機が回る。
ティモシーにとって、いつからか、ニューヨークでの新しい生活のねぐらはこの輪転機の下で、機械の回る音が子守歌になっていっていた。
アイルランドからの移民として、米国のエリス島の港に降り立ったティモシーを迎えて
くれるのは、先にその地へと向かった姉一人のはずだった。
弾む気持ちでタラップを降りたティモシーは、姉の隣にがっしりとした若い男が立っているのを見たとき、怪訝な想いと同時に気持ちが一瞬萎えるのを止められなかった。
タラップを降りてきた弟を抱きしめながら、姉のメアリーは恥ずかしそうに隣に立つ男を弟に紹介した。
「モーリス・ケリーよ。私たち、同じ船だったの。」
ああ、そうなのか、ティモシーには瞬時に状況が理解できた。
船がエリス島に着いたからといって、すんなりニューヨークの街に入れるわけではない。疫病を有していないか、きちんとした身元引受人があるか、こまごまとした手続きを移民局入国審査所でふまなければならない。長旅の上に、ここで疲れ果て身体を壊すものもいた。同じ孤児院の5人の仲間の中でも、姉が先に米国についていたティモシーは、一足早く入国審査所の手続きから解放されることとなった。
それだけでも、幸運だった。けれど、自分に先駆けて故郷を旅立ったメアリーは、長くとどめおかれていたのだろう。そこで、若い二人の間に交流が生まれたことは想像に難くなかった。
同じ孤児院の仲間達との新天地に向かっての船旅。
狭い空間に長時間押し込められていれば、様々な人間関係が生じ、また変化していく。
孤児院の子供達もそうだった。最初は他愛なくつるんでいた5人がいつのまにか、自然にいくつかのグループに分かれていった。全ての場面で、リーダとして振る舞うパトリック、そのパトリックを兄のように慕い縋り付くシャノン、無口なウォルターにそのウォルターとなぜか気が合う泣き虫のミック。姉がいるということが、仲間達の間にも一線を引かせているのか、素直に馴染めないでいるティモシー。
そうだ、俺はあの船の中でも、いつでもどこでも、どこか居心地の悪さを感じていたんだ。そんな中で、姉さんへの想いだけがたった一つのよりどころだった。
5歳年上の姉のメアリー・キャラハンは、典型的なアイルランド人の鼻をもち、ブルネットの髪とダークブラウンの瞳の少女だった。
年の離れた姉弟は孤児院では兄弟のいない他の子達に気を遣って、甘えることは勿論、
二人きりになることもままならなかった。年かさの子供は、小さい子供達みんなの母や姉の役割を果たさないといけないのだ。
「家族で暮らしていた頃は、よく母さんを手伝ってお菓子を作っていたわ。ティモシーは、母さんが作るバターケーキが大好きだったのよね」。昔を懐かしむ鳶色の瞳。
施設にはいれば、勿論、そんな余裕などあるはずもなかった。100人分のスープを煮込んで、100人分の靴下を繕い、年上の子供はシスターを手伝っていつもてんてこ舞いだった。
…僕一人の姉さんじゃないから。
疲れ切って泥のように眠るメアリーを見ると、ティモシーの中の甘えたい気持ちは自然と心の底に押し込まれていった。
それでも、まだ年端のいかない弟に少しの安らぎでも与えようと、メアリーなりになんとか忙しい仕事の合間をぬっては時間を作り出してはいた。風の強い夜は、夜風の音に怯える癖がある弟が、怖がっているだろうと、そっと幼少の子供達が眠る部屋に忍び込んで、布団を被り震えている弟を優しく抱き起こし、頬にキスを落とした。
…いい子ね、ティム。いい子ね。いい子だから、大丈夫よ。
薄ぼんやりと開いた目に、とろけそうな姉の笑顔がうつる。
ティモシーは、それをみているだけで、胸が締め付けられるような気分になった。
あの夜の口づけの甘さは、なにに例えられるのだろう。
暗い移民船の中で、誰もが無口になっていく。その中で、嵐の夜の口づけの思い出は飴のように、ティモシーの心を癒していた。
毎晩、眠りにつく前に、彼は夢想していた。
きっと明日の朝は、甘いさえずるような声と、良い匂いの抱擁で新しい朝を迎えるのだ。
…米国に渡りさえすれば。
姉との二人の生活。それが、幼いティモシー・キャラハンの唯一の希望だった。
ひどく高い摩天楼は、外から入ってくるもの達を拒絶しているようにしか見えない。
それでも、あの灯りの下に姉がいると思えば、耐えられそうな気がしていたのに。
若い夫婦が住んでいたのは、下町の小さなアパートだった。寝室が一間に、居間と台所が兼用の一間があるだけだった。そこに突然ころがりこんできた弟。
「気にするなよ。いつまでも、いていいんだよ」鷹揚にいうモーリス。
本当に気にしていないようだ。目を糸のように細くして、笑いかける。
しかし、金もない、暇もない、生活に追われている若い夫婦の楽しみなんて限られている。週末の夜、そんなときに、ティモシーは必ずこういった。
「俺、印刷所に泊まってくるよ。あの親父見ていないと、飲んだくれるから。」
ほっとしたような義兄に、済まなさそうに弟を見やる姉。
ティモシーの胸の中に様々な思いが渦巻く。
幸せなのだ、姉さんは、幸せなのに違いない。
いつから、自分はこんなときにこんな態度しか取れなくなったのだろうか。
どんなに布団を頭から被っても、忍び込む甘い声を耐えているより
輪転機の音の中で、刷り上がっていく新聞のインクの匂いに包まれている方がいい。
そして、いつしか、新しい生活の寝床は輪転機の下に、子守歌は機械のたてる音になっていく。
違うんだ、姉さん、姉さん。本当に僕が眠りたい場所はここじゃないんだ。
欲しいのは、甘い匂いの抱擁と耳元で優しく囁く声だ。
いや、きっとこれはいけないことなんだろう。
こんなことは考えてはいけないのだ。
…ティムいけない子ね。いけない子ね。
どこからか小さな声が聞こえて
暗闇から白い手がそっと影のようにのびてきて、頬をまるで蝶の羽が掠めるように触れていったような気がして、ティモシーは慌てて厄よけのクロスのかたちを中指と薬指でかたちどった。
(中編へ続く)