サイドストーリー〜シングル・モルト〜
珍しく、トントン拍子に仕事の話が進んで 定時前にあがれることになってしまった。
夕闇がそろそろと忍びより、まだ昼間の日差しも残っている 昼間でもない夕暮れでもない、
ぽっかり空いたような時間。 遊び疲れた子供が、もう帰ろうか、まだ大丈夫か思い悩む、
一歩踏み込めない恋人達が照れ隠しをしてくれる夕闇の
とばりを待つようなこんな時間が一番辛い。
家に帰っても一人、この街の中で本当に 一人だと思い知らされるから。
少し見上げないと話が出来ないような長身の彼が仕事の相棒。
最近は、ずっと一緒に行動をしている。
今日も、一緒にお客の前で デモンストレーションを行ってきた。
「これから、どうする?予定ある?」
「ううん、別に」
「じゃ、ちょっと早いけど飲みに行こうか。今から会社戻っても中途半端だし、
たまには息を抜かないとな...」
慣れた足取りで、路地をすり抜けていく。
足早な彼に遅れないように 付いていく。
地下のバーで、彼は、ウィスキーのロックを、 私はあまり飲めないから軽いカンパリ・ソーダ。
ほの暗い光に照らされて、鈍く光るグラスに彼が手をやる。
ゆっくり琥珀色の液体を口に含むと、みるみる昼間の緊張が解けて、 表情が緩む。
それから、ほっと、一息を付いて ネクタイを緩める。そんな一瞬一瞬に思わず見とれてしまった。
「へぇ〜」
「...なんだよ、にやにやして気持ちが悪いな」
「ううん、いい表情するんだなって思って」
「なんだよ。それ」
「お酒を飲んでいるとき、いい顔するんだって言っただけよ」
馬鹿馬鹿しいという感じで、またグラスに手をやる。
飲むごとに、昼間の顔から少しづつ夜の顔になって、室内のほの暗さに 同化していく。
そんな表情の変化に思わず見とれてしまう。
「あれ?」
「なんだよ、また」
「左利きだったけ?」
つまみのピスタチオの殻を割る彼の手の位置がいつもと違う。
「...ああ、これ?うん、そう左利きなんだ」
「でも、気が付かなかった。いつも左利きだった?」
「普通の生活では、右利き。飲んだときだけ」
「え〜、どうして?矯正したの?お母様とか、お家の人が直させたの?」
「...いや、母親じゃないよ。俺を育ててくれた人。右利きの方が便利だからって」
「便利って?」
「普通の道具は、みんな右利き用に作られているだろう?」
道具なんて言い方が、大げさで思わず笑ってしまった。
「ほら、はさみとか、ドアノブとか」
「道具なんて、言わないわよ。普通はね」
「そうかな…」
また、沈黙。
でも、いやな感じじゃない。
彼が、リラックスして 昼間の緊張をときながら、アルコールの酔いにゆっくり身を
任せていこうとしているのが 分かるから。
酔えない私も、今日は小さな発見に酔っている。
アルコールが入ったときだけ、出てくる左利き。
海の底に、静かに眠っている 宝物が波に揺り起こされて目が覚めたみたい。
明日も、大変なことが あるかもしれない、人生はうまくいかない方が多い。
でも今日はこの小さな宝物を発見できたから、それでいい。
今晩は、この小さな発見を胸に抱いて眠ろう。
海鳴りが遠くから聞こえて、いつもより安らかに眠れるかもしれないから。
2004.10.9




