風と共に去りぬ

倉敷観劇報告

風共倉敷観劇をなさった転妻よしこさんから、観劇報告が
届きましたので掲載しますね。よしこさんの作品を見る視点は
いつも鋭く、「そうか!そんな見方もあるのね〜」と毎回目から鱗状態です。
いろんな人がいて、いろんな見方があって、違う面白さを気が付かせて
くれるところがファンサイトの楽しさですよね。
みなさんにも、是非この醍醐味を味わって頂きたく掲載させて
いただきました。よしこ様本当に有り難うございました♪

風共ですが、ほんとに良かったですよ!!
倉敷公演の昼の部、一度しか観ていないので、
例えばあの日、たかちゃんが特に好調だったという可能性もあるか、
とは思いますが、とにかく、良いバトラーでした。実に巧かった!
語ると長いのですが、私は、あけちゃん様とは前提が異なっていまして、
レット・バトラーという男が非常に好きなのです。
原作を読んだのが中学2年の頃で、もの凄くハマって、
でも映画を観て、「ちょっとちゃうんよ・・・」と思ったものでした。
原作(の訳本(^_^;))ファンの私としては、映画にせよ宝塚にせよ、
前半のバトラーの描かれ方に、今まで満足した試しがありません
それは今回の宙組公演の脚本についても同様です)。
原作のバトラーは、かなり、前半に時間をかけていて、
スカーレットとの恋路を自分から楽しんでいる面があると思います。

彼はいわゆる告白めいた台詞は口にしませんし、
スカーレットに甘いことを言ったり、反対にわざと怒らせたりして、
彼女が「レットはもしかしてあたしを愛しているのかも?」
などと、ちらりとでも思ったりすると即座にそれを見抜いて、
「俺は君を愛していない」
「互いに愛し合っている夫婦ほど、悪趣味なものはない」
とスカーレットに向かって言ったりします。
そんなレットの要求は何なのかといえば、
『君ほど面白い女は見たことがない。興味が尽きない。
俺の情婦になりたまえ。なんでも買ってやるから』
ということに尽きるのです(!)。

現に、彼自身、娼婦のワトリングの「旦那」として、
彼女の店に入り浸っていますし、
それ以前にもいろいろな女性との関係があったことが、
原作ではあちこちで触れられています。

また、スカーレットはスカーレットで、
自分はアシュレだけを愛している、
という自覚でずっと生きているので、
『レットに対してはそのような愛はないし、
むこうも私を愛していない、ただ、ふたりは気が合うし同類だ。
一緒にいて楽しい相手だから、結婚すれば好都合だろう』
というふうに捕らえて、好ましく思っています。

それが、結婚後、例の、ケネディ雑貨店で、
スカーレットとアシュレが(友情から)抱き合っていた、
という一件が、スキャンダルとして街中に知れ渡ったとき、
レットが、気が狂ったように飲んだくれて嫉妬を露わにし、
スカーレットはその別人のような姿に恐怖を抱きながらも、
初めて、「彼は私を愛していたのだ!」と心の底から理解し、
自分でも思ってもいなかった歓喜に包まれます。
また、レットのほうも、このあと、
階段から落ちたスカーレットが怪我と流産で死にそうになったとき、
初めて、自分が心から彼女を愛していたことを、
メラニーにむかって白状します。
あのあたりが、一種のどんでん返しというか、
種アカし的な場面だと原作を読んだとき思ったものでした。
ふたりが本当に愛し合っていたことが、
初めてはっきりした言葉として表現された場面でしたので。

でも、映画もそうですが、宝塚版でも、
レットが最初から、スカーレットに対して本気であることが描かれていますし、
スカーレットもそのことを知っていて、自信を持っています。
確かに、短時間でレットの言動がころころ変わるような印象を
観客に与えてしまっては、作品的に不都合なので、
最初から、「レットはスカーレットを愛している」、
「スカーレットはアシュレに夢中」、
「アシュレはスカーレットに惹かれながらもメラニーを裏切れない」、
というわかりやすい図式で描いている、ということなんだろう、
とは思うのですが。

私としては、前半の勿体つけているレットが如何にも大人で、
大変魅力的に思えましたので、あれが描かれないのは
個人的にはとても残念です。
もうひとつ、結婚後のレットが、スカーレットの連れ子たち
(初婚で得た息子のウェード、再婚で生まれた娘のエラ)を
愛情を持って育てるいきさつの部分も、レットの前半生や、
既に若くない彼の年齢などを考え合わせると、
なかなかに切ない場面が多くて私は好きだったのですが、
これも映画や宝塚では描かれたことがありません。

ところで原作だけにあるといえば、スカーレットの両親の話もそうですね。
ジェラルド・オハラがアイルランドでどういう家庭に育ったか、
どのような志を抱いてアメリカに来たか、そこで何があったか、
一方、スカーレットの母のエレンにしても、
ロビヤール家の令嬢としてどのような前半生を送ったか、
どれほどの決意でジェラルドのもとにやって来たか、等々、
娘のスカーレットの身に起こる様々な事件とは全く関係ありませんが、
彼女の人となりを理解するには、やはり必要な部分だったと思います。
レットにしても、チャールストンの上流階級で育って、
途中からアウトサイダーになりながらも、
やはり伝統的南部人としてのアイデンティティを拠り所として持っています。
本当の「風と共に去りぬ」は、そうしたものが一貫して流れている世界で、
スカーレットもバトラーも、本来はそこに生きているキャラだと思います。

そして、それらを踏まえてからでないと、南部の誇りの話など、
日本人の我々には想像することすら難しいと思います。
スカーレットだけが、ほかの南部人と異なり、
自分の実利のために、いとも簡単に南部を無視できることの意味も、
それに対して周囲がなぜあれほどに驚き呆れるかも、
また、レットがどうして、敗北目前の南軍に志願したのかも、
宝塚の脚本ではまったく説明されませんから、
ただ不可解な行動としか、観客の目には映らないと思います。

しかし、そんなこともお構いなしに宝塚で「風共」が成立するのは、
バトラーがひたすら格好良いから、だと私は思うのです。
言葉で説明されない、「よくわかんない南部のいろんなこと」が
レットの格好良さの中に、抽象的にせよ表現されているから、
「こういう時代を生きた男って、例えば、こんな人のことらしい」
という納得が観客の側に生じて、我々は、日本を離れ、
南北戦争前後のアメリカに、苦もなく飛んだ気分になれる訳です。
その「格好良さ」は、ホンモノの南部人の何とか、でなくていいのです。
日本人から観て、「南部だ」と思えるものでさえあればいいのです。

・・・・ああ、意味不明な、長い前置きでした。すみません。
で、倉敷のたかちゃんバトラーには、その、「南部だ」があった、
と私は感じたのです。登場シーンの始めから、既に。
あれは見事でした。年季の入った男役にしか出来ないワザだと思います。
あそこで、「たかこちゃんが心を込めて演技してます」の姿勢だったら、
私は、ファンしか良さがわからないバトラーになっていたと思うのです。
例えば、「聖なる〜」のフレデリックなどがその典型です。
脚本的にそれでいいものもありますが、
植田歌舞伎の「風共」でそれをやられたら噴飯ものですので、
私は、たかちゃんはきっと、何らかの型を見せてくれるだろう、
という程度のことは期待していました。

古い話ですが「うたかた」のときもそうでした。
ヒースクリフやアルフォンソのように、演技だけでやろうとしたら、
「うたかた」は話のアホらしさが前面に出て、きっと失敗する、
と私はプレお披露目の演目が決まったときから思っていました。
で、どう演るかなと思って見にいったら(仙台まで行った・爆)、
たかちゃんは男役の「型」で見せる手法を取っていました。
あのとき、ちょっと感心したのです、たかちゃんはこれも出来たんだ、と。

でも、たかちゃんの追求する「演技」と、男役の「型」を、
たかちゃんはいつでも自在にコントロールできる訳ではなくて、
ベルばらのフェルゼンはかなり苦戦していたと今にして思います。
今回、バトラーを見事に演じるのを観て、
これほどのことが出来るのなら、
フェルゼンも、今ならもっと面白くやれただろうなと
今更ながら、思い返した次第です。
あともう1回、福岡で観られればと思っていますので、
そのときにまた、感想をお送りできればと思います。
倉敷はとにかく素晴らしかったです。
劇団の妙な方針で短命なトップさんが多くなってしまったので、
こういう言い方をするのは誤解を招きかねないとわかっていますが、
トップを4年もすると、明らかに大きさが違って来るものだなと
今回は改めて思いました。

                     2004.10.29